眼の健康とコンタクトレンズの専門医 医療法人社団 広辻眼科

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広辻眼科マンスリー 第m91

投稿日 2013年9月1日

開院五十周年になります

理事長 廣辻逸郎

宝塚市野上1丁目山下橋東で開院したのは昭和38年9月1日(1963年)で今年で丁度50年になります。宝塚に姉が住んでいるほか何も未知の住所で、医師会にもどなたも知己がありませんでした。市内に眼科医院は3軒で、住民は7万人でしたが宝塚は大阪・神戸への通勤の住宅地として造成地に住宅が急増し年間1万人ずつ増加して小学校も毎年1~2校造られて現在の23万人になりました。当時はまだレッドアイ(赤い目)と言ってトラコーマや外眼部の病気が多く、眼科医の仕事は洗眼行為が主で、眼底の病気を診ることは少なく検査器具も殆どありませんでした。
漸く高血圧・腎炎・糖尿病など内科疾患との関連で眼底検査の重要性が理解されるようになり、また戦後の生活から改善されて健康診断や住民検診で眼科での検査が重要であると積極的に受診する世になりました。近隣の先生だけでなく、山本・中山・小浜・西谷・生瀬・仁川と宝塚だけでなく隣接の地域の先生からの紹介で患者さんが来院して下さいました。
昭和51年(1976年)現在地に移転し、当時としては十分な暗室や処置室・待合室で次々と開発された検査器具も設備出来ました。ただ白内障手術を開業医ですることは予想もしておりませんでした。
学校の眼科検診も30年代はトラコーマ検診が主でしたが、生活環境の改善と共に外眼部疾患は急速に減少し、視力測定や近視進行予防や弱視の早期発見指導に重点が置かれるようになりました。
眼科医の仕事は患者さんの視力の維持回復が目的だから手術が出来なくても視力をよくするためと視力検査メガネ処方やコンタクトレンズ(以下CL)処方に力を入れました。
昭和30年頃から使われだしたCLもハードタイプからソフトタイプ、それも使い捨てタイプにと変遷しました。最初のハードCLは酸素の透過性が少なく、使用法を誤って夜中に激痛で起こされることもままありましたが、現在は酸素透過性もよく,装用感も楽で深夜に起こされることはなくなりました。
私が眼科教室に入局した昭和28年は大学ですらルーペと暗室灯、そして平面・凹面鏡で患者さんを診ていました。よくぞこれだけで難しい眼底疾患を診断していたものです。細隙灯・倒像直像検眼鏡・眼圧計・三面鏡・自動屈折計・視野計・OCT(光干渉断層計)等次々と精密な光学機械が開発され、手術も格段の進歩で失明の危機から救われるようになりました。最近の眼科の診断治療については院長が説明しましょう。手術の後両眼を包帯され、1週間絶対安静を強制した白内障手術も日帰りでしかも眼内レンズの挿入でぶ厚い凸レンズもCLも使わなくて済むようになりました。当院でも平成19年現院長が常勤になり翌20年から日帰り手術を実施しております。
開院当時まだ宝塚は歌劇と撮影所そして温泉の町でした。安産の帯の授かる中山寺と、台所の神さんで、荒神さんと信仰の厚かった清荒神。仁川競馬場も国営競馬のファンで賑わいました。南口も逆瀬川も駅前の商店街は木造の市場から都市開発で南口のサンビオラに始まり、逆瀬川も西武百貨店が進出し、3つのビルで駅前が一変しました。東洋ベアリング・チバ製薬・生瀬のウイルキンソンの眼科の労災患者の依頼も頻繁でした。しかし急激に開発造成された山手の住宅地住民は軒並み高齢化し、温泉街や周辺保養所もすっかりマンションになり、大きな工場や企業も宝塚から徹退しました。半世紀で街も随分変貌しました。
開業以来50年多くの患者さんや医師会の先生方また重症患者を引き受けて頂いた病院のお陰で今日までやってこれましたことを感謝します。印象に残る患者さんも沢山おられます。初期の患者さんの2代目3代目の患者さんを診られるのは有難いことです。50年を振り返りながら御礼の言葉とします。