十月九日は目の愛護デーです
理事長 廣辻逸郎
目の愛護デーは本来は十月十日ですが、第二月曜で今年は九日になっております。
十日前後の新聞・テレビで目の健康に関しての解説や講演会の案内が出ておりますし、宝塚市でも隣の川西市と交替で目の病気についての講演会を開いております。
講演の対象としては矢張り老人性の病気が多く、一番最初は白内障の手術の解説が主でした。
白内障手術が進歩して、短時間でなんの痛みも無く終了し、日帰り手術が特別でなくなってきました。しかし、いかに手軽になったからと言っても、ミリ単位の手術をするわけですから、決して軽視することなく術者はすごく神経を使っている事を忘れないで下さい。
次に問題にされたのは緑内障です。緑内障は日本では四十歳以上の約6%の有病率とかなり高い事、更に緑内障は眼圧が高い病気と考えられていたのが緑内障のうち半数以上が正常眼圧緑内障であるということを記憶して下さい。
最近特に眼科の診断治療で話題になっているのは加令性黄斑変性症です。日本人の寿命が延びると共にこの病気が増えてきました。診断治療が困難で、失明に至ることが多かったのですが、診断技術検査機器の出現、手術方法の進歩で早期診断早期治療で失明の苦しさから開放される日も近くなってきました。
他に糖尿病から来る網膜症は中途失明の第一である事に変わりありません。糖尿病は決して減少しておりません。日常生活充分注意しましょう。
健康とは! 不老長寿の薬
大昔から人類の願望は病気の苦しみから解放され、長生きしたいと言う事だと思います。有名な徐福伝説があります。今を去る2200年前秦の始皇帝の命で『はるか東方の海に三神山があり、そこに住む仙人が最高の不老長寿薬を持っている』と徐福が薬を求めて出かけ、その到着先が日本の和歌山であった。一説には富士山山麓であったと言われています。何れにせよ、幻であったようです。
しかし、現代のこれだけ科学が進歩した世でも人間の願望に変わりは無いようです。毎日の新聞広告に健康・美容関連商品が掲載されております。
今朝の朝刊だけでもグルコンサン・ローヤルゼリー・ビフィズス菌・にんにく・カルシューム剤等々広告されています。
健康志向が強いために長寿になったのか、何歳まで生きたいのか。呆けたり寝たきりでなく長生きしたいと願っているのに変わりはありません。
最近アンチエイジング医学という言葉が言われてきました。抗加令医学・痴呆・難聴・白内障等の 加令現象に立ち向かい食い止めようと研究する医学です。
白内障については小切開でレンズ取替え出来て略解決しました。老化を最初に感じる感覚のNo1は目の老眼でしょう。老眼について新世代の眼科医は私達世代と違う観点で対処してくれましょう。 痴呆に対しても、脳を若返らせる方法等の書籍が良く売れており、任天堂のゲーム器は老人に大人気で品切れ状態です。でも長生きしても浦島太郎になっては悲しいですね。
悪夢としての長寿
最近購読した曽野綾子さんの“戦争を知っていてよかった”という「新潮45」平成15年から17年3月号に連載されたエッセー集の中に表題の一文があったので、著者には無断ですが、老人問題の一端を記されているので引用させて頂きます。
ご承知のとおり、曽野氏はクリスチヤンで文筆家で競艇の笹川氏の作った日本財団の会長を1995年に引き受けておられる。私は些か辛口の鋭い切口の批評家曽野氏の愛読者である。
多忙な中を年に数回海外に出張され、それもエイズや紛争の絶えない南アフリカや未発展国が多い事から現在の日本との比較に実感がある。
『少なくとも、1950年頃まで、日本人のみならず人間の寿命は非常に短く、生きることは悲しみに満ちたものであった。・・中略・・それから半世紀も経って、日本人は世界でトップの寿命を約束されることになった。これが幸福でなくて何であろう。私の知らないところで、医学のみならず、社会制度自体が変革されたからこそ、乳幼児の死亡率は減り、国民皆がたとえその日一円も懐に持っていなくても、緊急の医療行為を拒否されることはなくなった。…私の心には常に貧しい地域を見すぎてきた影響が残っていて、日本人が整備して使っている社会制度の恩恵がありがたくて仕方がないのである。』アメリカでは金があってもブラックは診療しないと言い切る白人医師がいると。日本人が当たり前の診療体制が曽野氏の目にはそうでないことである。
氏の厳しい記述が続く。
『戦後の医学や社会組織が一貫して長寿を目的とした時、ほんとうは同時に長寿社会が実現した後どんな悲惨な状況が出現するかも研究すべきだったのだ。青年時代と同じようでなくても、一応自分の身の回りのことは自分ででき、また自分の目標とする趣味や仕事があればどれだけ長生きしてもいい。そこまでいかなくてもとにかく自分の手で自分の口に食事を運ぶことができ、どうにか自分で排泄のための体の動きができれば、まだ生きていてもいい。しかしそれさえも不可能になった時、人は自然に生命を収束させるのが当然だ、と私は考えている。基本的に動物が自分で餌を捕れなくなり、自分で水を飲みにいけなくなる時は死ぬのであって、それは決して人間性を冒すものでも乱すものでもないと、私は思うのである。』
『もう70歳80歳になったから、というだけの理由で、遊んで暮らしていいのだと思っている老人が多すぎる。老人ホームでは、食後の茶碗も洗わず、門の前の掃除もしない。体の悪い人は介護を受けるのが当然だが、遊ぶだけの体力のある人は、一部で働くのが当然である。…人から介護を受けるより介護のために週一日でも、一時間でも働ける老人になれたらそれは大きな幸運なのである。
姨捨てはもう過去のものになった、と我々は信じている。しかし国が貧しいか、世話をする人手がなければ、年寄りは殺さないまでも捨てる他はない。
将来、年寄りが金もなく、充分な食べ物もなく、世話をしてくれる家族や世代もなく、かといって死ぬ方法もなく、垂れ流しのまま、ほっつき歩く社会が来ないとは言えない。その時も日本が金を持っていて、それで人を雇えれば別である…。』
文の途中をはし折ましたので、著者の真意を充分お伝えできなかったかもしれません。
介護保険も随分浸透して来ました。街角に立っていると、介護センターの自動車がひっきりなしに往来しております。しかし介護保険料、医療費の自己負担は2倍3倍になって来ました。現実老人の生活は世知辛くなってきました。健康に感謝し、祈りましょう。